昭和51年07月10日 月次祭
今月は稽古の焦点を太くなろう。一つ稽古の目当てというものをそこに置いて、お互い信心の稽古をさせて頂いております。はぁその事に取組ませて頂きますと、もう一切が信心の稽古の材料にならないものはない。一切が自分の心を太くする事の為の材料にならないものはない。そしてその稽古の楽しいと言うか有り難いというものが頂かれる。稽古をすると共励殿に色紙に「信心のけいこ」とひらがなで三代金光様がお書き下げになっておられる色紙が、掛けてございます。
信心の稽古とどうでしようか皆さん本気で日々信心の稽古という事を、心に置いておられるだろうか、念頭に置いておられるだろうか、そして今月の焦点であります所の、太くなろうと。痩せきれておる者がいかに力んだところで大した力はありません。太くならなきゃならない。為にはやはりそれこそ何でもの願いに立たなければならない。何でもいうならかんでも一つ頂く。あれは好かんこれは好きと言った様な、好き嫌いでも言いよったんじゃいけません。今日食事の時に丁度相撲があっておりました。
丁度高見山が土俵に上がっておると。今日は久冨繁雄さんも、今日は1時からずっとおられましたから、一緒にご飯をさせて頂いたんですけど、この頃からハワイに巡業してあちらで暫く、もうあちらでのいうなら食べ物。しかも自分が子供の時から好きじゃった食べ物を、もう腹一杯食べたら一遍に15キロ15キロですか、15キロ大きくなった。それで解説をする人が言っておりました。この人がこれだけの例えば力がね、例えばこのう相撲では足腰と言うそうですが、外人は足が弱いそうですね。
これが足が強うなったら天下無敵。もうこの人にかなうものはなかろうと言うておりましたが、とにかく相撲取りさんが、もうそれこそあのちゃんこ鍋の中にはもう何やらかんやらもう何でん入っとるね。だからもうこれ位のこれは好きのと言う様に、より好みどんしよったちゃでけん。だから何もかにもの中から栄養を取る事がでけて、あんなにお腹が大きゅうなったり、体がいわゆる筋肉隆々たる体格が生まれる。いうなら体が太るわけであります。その太った体で一生懸命の稽古をする。
その太った体で修行させてもらうのですから、もう力は限りなくついて行く訳でありましょう様に、信心の稽古もやはり同んなじです。しかも今月は一つ「太くなろう」と言うんですから、一つもうこん位の事でくよくよする様な、小さい事で腹が立つ様な、たったその位な事で心配になる様な、ところが事実はそうなのですから、それを私はこんな小さい心では大きなおかげは受けられんと悟らせて貰うて、いよいよ太く大きくならせて頂く稽古に取り組まなければいけません。
そこでなら取り組む事になりますとです、太くなる稽古の材料はもう日々一杯あると言う事でございますけれども、取り組んでいなかったらやはりあれは嫌だこれは嫌いという事になってくるのです。まず力を頂く為にまず太れという訳です。あながち美味しい物が身につくと言う事ではありません。私共もさっきからもうこのお茶を頂きます冷たいお茶を。もう美味しい美味しいして美味しいっち言わにゃおられん。もうこげな美味しい物があるじゃろうかと思うごと美味しいのですけれども。
これは腹も太らなければ力にもなりません。それは体のどこかに疾患があるから水を求めるのです。だからそこでなら自分の疾患をやはり悟らせてもろうて、その疾患を癒していく事にならなければ、正常という事とは言えません。私共がいよいよ稽古さして頂くのに、あれは嫌これは嫌という様な事で。又はこれが好きだからと言うて好き過ぎる事になっておったりします。そこで分からしてもらわないといけないのは、これは心の疾患であるとか、又はこれは嫌いなんだけれども。
やはり辛抱して頂いてそれが血肉になると言う事を分からせて貰うて、血肉になる事が分かって来るとそれが楽しゅうなって来るのです。先程竹内先生が話しておりました、もうとにかく取り組んでおると言う事であります。ただ心配の虜になる、いつも不安である焦燥であると言った様な事では、信心の稽古が稽古になりません。先程日田の梅山さんが、今日はお商売で佐賀の方に行っておられる、丁度帰りの時間がここのお祭りに間に合う、始まるちょっと前でしたからそのまま御夫婦でお祭りを頂いておられます。
帰り道に佐賀のどこかで子供が飛び出して来た。もうそれこそもう肝を冷やすような思いをした。けれどもおかげを頂いてまぁ無事故ですんだとこういう。日田のやっぱり方ですけれども坂本さんという方がこちらへお参りしてきよった。後ろの方からもうはっきり居眠り運転と分かる様な、日産何とかとか日本水産か何かの車だったそうでございまして。もうそれこそはっと気が付いた時には、もうそれこそもう居眠り運転でやって来る。その時にはもう私は初めてあげな一生懸命な金光様ば唱えた事はなかった。
一生懸命金光様ば唱えて、その唱えたそのちょってしたところがもうそれが正常になっとった。それを帰りに気が付いたんですけれども、その車が下に落ち込んどった。正常になったそして一番家でもなければ人でもない、落ちると言うてもそんな低いところでもない。ちょうど良かとこでやっぱり落ち込んどった。その帰りにその事をだっかりお礼を申して帰りましたと言うてお届けがあった。だからとにかくそういう例えば人の事でも一生懸命祈るとか願うとか、日々いうならば信心の稽古をさせて頂いた。
「痛いのが治ったのが有難いのではない、いつもまめなが有り難いのだ」それこそ今日はおかげで、ほんとにびっくりする様な、あはや子供をひき殺す事になりかねない事をおかげを頂いた。なるほど有り難いけれども平穏無事でお参りがでけた、平穏無事で今日も過ごさせて頂いたという事は、もっともっと有り難い事の筈でなければならんのですけれども、その有り難いというのが希薄になって参ります。
してみると信心の稽古をさせて頂く時にです、例えばびっくりする様な事やら心配する様な事やら腹の立つ様な事が起こって来ると言う事も、神様が確かに信心の稽古をさせたいと思うての、御神慮であると言う事が分かりますね。だからそこで腹を立てておったりイライラしておったら、今日は信心の稽古に取り組んでいなかった、落第をしたという事になるのです。この辺のところは私共が信心の稽古をさしてもらう者はよく分からしてもらう。何か痛いのが治ったのが有り難い、なるほど確かに有り難い。
けれども平穏無事の時は有り難くないというところにです、信心の稽古不足があるのです。問題はやはり有り難くならせて頂く稽古ですからね。だからびっくりする様な事を起こしてからでも、神様は有り難くならせようとなさる働き、腹を立たせてでもびっくり信心の稽古をさせて下さろうとする働き。今日は善導寺の久保山さんがこの頃4.5日前からある事で失敗をして、もう2.3日もうとにかくぐずぐずしておられた。ところが昨日もやっぱ同じ様な事が起こった。
ところがおかげでですはぁここんところが、これが今日の稽古の対象だなぁと思うて、それこそ生神金光大神様で、心の中にそれを治めさせてもらうだけじゃない、そういう様に唱えさせてもらったら有り難うなってきた。もう晩の御祈念の時には、もうその事が有り難うして有り難うしてと言う事になってきた。2.3日前には同んなじ様な事で、いわば腹を立てたばっかりに、心の中が崩れてしもうた傷だらけになった。そしてそれが癒えるのに2.3日かかったと言うのです。
そこで2.3日後にまた同じ事が起きてきたけれども、はぁっここで心配いや失敗をしてはならないと思わしてもろうて、それを一生懸命生神金光大神様と、いうならば相手の事人間関係の事ですから、相手の事を祈り願わして頂く様な心のゆとりがでけて、おかげを頂きそのあと味の良い事有り難い事。夜の御祈念にその事をお礼い申させて頂いたら、もうとめどもなく有り難くなってきたというお届けが今日ありました。私はねもう特別にこうしてお願いをして、特別なおかげを頂いてと言う事ではなくて。
そういう目の詰まった信心の稽古、先程竹内先生が申しておりました様に。有り難くならせて頂くという事が、いかに神様へ向けてしかも神様に喜んで頂く事を思い、願わしてもらう精進さして頂く所から、期せずして喜びが頂ける。今日も信心の稽古をさして頂く、しかも大きくならせてもらう、今月の焦点が太るというところなのですから、これを大きく太い、いうならばどん腹で受けさしてもらおうという事になって、相手の事を祈らしてもらう、願わしてもらうという様な心持ちにならして頂いたら。
失敗した時の心の傷というのは、3日間もかかったけれども、そこのところを見事に受け抜いた時の、ありがその後味の良さ、夜の御祈念にお礼を申し上げる時、とめどもない有り難いものが湧いてくる程しの、信心の稽古が出来たという事が私は有り難い。信心の稽古というものはそんなもんだと思う。有り難くならせて頂くもとは、もう稽古の材料はいっぱいある。その稽古の材料は何を下さろうとるかと言うと、氏子の心に有り難いという心を与えて下さる為であります。
その有り難いが溜まり溜って、おかげの受け物ともなる、または徳ともならせて頂くですから、そこに焦点を置いての信心でなからなければいけません。ただ漠然と朝参りをしよります、大祓い信行をしよります、一時の夏季信行にも参加させて頂いておりますというだけでは、そういうお参りも祈念も奉仕も、そういう心をいよいよ確かな物にしていく事の為のそれであります。信心であります。
いうならば信心の稽古の手掛かりをお教えて頂くのですから、どのような問題があっても一日の中に、いうなら信心の稽古をさしてもらう材料が一杯ある。しかも今月は太くなろうという事に焦点を置いて稽古をさしてもらう、太くならせて頂く材料はこんなにもいろいろ沢山ある。その稽古に本気で取り組ませて頂くところに、その後味の良さと言うか、有り難いものが尽きぬ有り難いというものに、浸らして貰うおかげが頂ける。それが今日一日のいうならば、信心の実績を作った事になるのです。
先程私が座っておりましたら一番下の孫が、何かこんな小さい飴玉を持って来て、もうとくとくとして私の所に1つそこに置いておるんですね。そして俺はやったぞと言わんばかりに、こうやっぱり気持ちがえぇらしいんですね。誰にでも配って歩きよるんです。やった積りでおるんです。相手が喜ぶとか喜ばんとかいう事はまだ感じる筈もありませんけどもね。信心もやった積りではいけませんやらなければいけません。そこにいわゆる確実に自分の心の中に刻み込ませて頂けれる。有り難いというものが感じられます。
その信心が一段一段高められてまいります。いよいよ自分の心が確かな太い心にならせて頂く事ができます。そういう一つのね一心発起というものがなされ、本気で稽古をしようと本気でお参りをしようと、お参りが出来ます。本気で稽古をしよう稽古が出来ます。本気で思わないからお参りが出来んのです。ここに石井信司郎君の従兄弟になりますか、この上に大京寺というところに縁についております。
それ以来信心がありませんから、子供ん時から信心はしよりますけれども、もうお広前ここのお広前にはもう、あぁあそこが合楽の教会と分かる様なところにおるんです。ところがなかなかお参りが出来ない。ところか今度はまぁふとした事がでしょうけれども、この夏期信行はどうでもどんな事があっても、一つお参りをさせて頂きたいと念願を立てた。ちょうど昨日で八日目になりましたが、ちょうど七日目に御届けをしておりましたが、「親先生不思議な事です。
主人にも言いません親にもお母さん達にも言わずに、ところが丁度その時間になると、何か用件で出らなければならない様な用件が、必ず起こってまいります。おかげで今日もお参りがでけました」と言うて、もう目に一杯涙をためてお礼を言うんです。皆さんが月例祭に参って来た、目に涙が一杯たまるもんじゃないでしょ。本当に許されておかげを受けて参って来たんだという実感があるならば涙がこぼれるです。
お引き寄せを頂いた途端に、自分で参ってきとる内は値打ちはないです。お引き寄せを頂きましたと、口では言いながらお引き寄せを頂いたと言う実感がない。本当に出来んところを神様が御都合お繰り合わせを下さってお参りが出来る。一心発起をしたからです。はりゃもうお参りをしようと思いよりまして、毎日忙しくて忙しくてもうお参りしようと思う人は、そりゃ一杯おります。もう家からこげんして合楽の方を向いて拝みよりますと、言うただけでは信心の稽古にはならんとです。お参りをさせて頂きたい。
それを念願として一心発起するならばです、神様が何とかしてその事が神様のお喜び、その事によって神様が喜んで下さる事である限り、必ずおがげを下さるです。だから本気で信心の稽古をさせて頂こう。本気にならせて頂いて願わして頂いたら、一切の事が稽古の材料あり一切の事が太くならせて頂く、何でもかんでものという願いになってくるのであります。その何でもかんでもの願い、何でもかんでもいわば受けて、それに対する有り難いものをもって応えていくという信心をさせて頂くところから。
それがそのまま神の働きそのままに受ける事になるのです。皆さんが日々ね、祈願詞を奏上しておられます様にです、神の働きそのままに、金光大神の道貫くと言う様な、言葉がございますがね。それこそ何でもかんでもの願いにたって、何でもかんでも自分の心を太らせていく為の、と腹をそこに決めなければいけません。きつい事ではありますけれども、それが頂き終えた後の後味と言うか、それこそ夜の御祈念の時には、ようも普通ならあげな事も嫌で嫌でたまらん事を。
こんなに有り難く頂かせて頂いたという事が、有り難いものになっていくのですね。何でもの言うならば願いに立たせてもろうて、神の働きをそのままに受けて、そして神の働きをそのままに現わせる程しのおかげを頂くという事が、お道の信心であります。それにはいつも信心の稽古という事が年頭になからなければなりません。そして今日もそれを受け抜かせて頂こうという、一心発起がなされなければなりません。稽古の楽しみ稽古の喜びが先ずは身につかなければならんという事でございます。
どうぞ。